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2006/11/16

補筆の事情。

 新宿のタワーレコードは好きである。駅からの近さが良い。が、エスカレーターで9階まで行かなければならないのは一寸面倒である。

 先日も、池袋へ出たついでに足を伸ばしてみた。特に何の目的もなく店内を歩き回って気になったCDを見て回る。目的もなくといってもまんべんなくというわけにはいかず、当然好きな作曲家の周辺を嗅ぎまわることになる。 知っている人は知っているがワタシはハイドン兄弟の弟の方、ミヒャエルの音楽を愛好する。そしてこれまた知っている人は知っていることだが、なんと今年はミヒャエルの没後200年なのである。日本国内ではモーツァルト生誕250年の嵐ににかき消されてしまっている感があるのは残念至極だが、それでも輸入盤の世界では細々ながらもリリースがある。新宿のタワレコが好きだと初めに書いたが、この店ではちゃんと『ミヒャエル・ハイドン』のコーナーが区切ってあるというのもその理由の一つである。
 CDの背表紙はその狭い縦書きのスペースで客にアピールしなければならないものだが、特に輸入盤では横文字&横書きという悪条件が伴う。だから目を凝らして、首を斜めにして文字情報を解読しなければならない。無論ミヒャエルの場合全部でも20枚ほどだから兄ハイドンに較べたら微々たる品数であるし、そうそう新譜が並ぶこともないのだが、今回は何やら新しいモノが在りそうな予感。案の定、その中に気になる一枚が。

『Johann Michael Haydn: Requiem in B』

この文字からアタマに浮かぶのは、ミヒャエル最期の年、すなわち1806年にヴィーン宮廷からの依頼によって書き始められた変ロ長調のレクイエムである。しかし・・・あの曲は作曲者の死によって未完に終わったはず。録音もあるが、完成部分が20分足らずだから一枚のCDのメイン曲にはなり得ない。不審に思ってCD裏をみてみると、未完どころではない。レクイエムを構成する楽章がすべて揃っているようである。これは一体、どういうことだろうと思いながらよくよくみると、

『Vervollstaendigung von P. Kronecker』

と書いてある。ドイツ語だ。これを訳せば、「P.クロネッカーによって補完された」となる。補完?補筆完成?された?クロネッカーって誰だ?謎はますます深まるばかりだが、こうなったら買うしかない。迷わず購入。

そもそも、このレクイエムはもともと全歌詞のうち初めの4分の1程度しか作曲が終わっていないのだ。誰が補完するにしても、作曲者のスケッチなり何なり無いことには無理だろう。中には英文の解説もあったので、単語を拾って意味を想像する。クロネッカーなる人物はベルリオーズと同じ1803年の生まれ。この補筆版は彼がオーストリアのクレムスミュンスターにあるベネディクト会修道院の合唱長を務めていた1839年(ということはあのシューマンの結婚前年ですね)に完成させたものらしい。同じく未完に終わったモーツァルトのレクイエム(以下モツレク)の場合は作曲者の死後間もなく弟子のジュースマイヤーによって完成されて今日に伝わっているが、これは(少なくとも音楽の骨格だけは)8割方出来上がっていたし、スケッチ類も遺されていた。何より完成者ジュースマイヤーが、作曲者の晩年に付き従い、作曲の手伝いをしていた弟子であるというのが一番大きい。
 それに引き替え。クロネッカーは1803年生まれであるから彼が物心つくころにはミヒャエルはこの世の人では無かったはず。では彼はどうやってこの曲を完成させたのか?解説に拠れば彼は

『(ミヒャエル・)ハイドンの精神とスタイルに則って』

つまり『ミヒャエルの心持ちで』補完を行った・・・・・のだそうだ。ということは、モツレクにおいて20世紀の音楽学者たちがジュースマイヤーの補筆を叩き台にして、各々のモーツァルト研究を元に仕上げた種々の完成版と、コンセプトとしては同じと云うことになるのかな?だとすると結構なイロモノかも。


家に帰って早速聴いてみると、なんとピリオド楽器(作曲当時の楽器またはそのコピー楽器)による演奏ではないか。途切れた部分からの繋ぎはまあまあ巧くいっているようだが、次の楽章からは、ミヒャエルが1771年に作曲したレクイエムからの影響(というかほとんど引用と云ってよいかも)が丸見えで違和感どころかなんだか可笑しい位である。全曲の終わりに冒頭の真作部分の音楽をそのまま転用するのは、モツレクのジュースマイヤーが採ったのと同じ遣り口であるが、ここで再登場するミヒャエルの真の音楽の高揚感は素晴らしい!ミヒャエル本人が全曲を完成させなかったことをつくづく惜しいとあらためて思い知らされたCDである。

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コメント

演奏自体は確りしたものであるから、真作部分だけのためでも買う価値はあった。
とはいえこの手の補完では、後世の研究家がいかに努力しても、同時代の弟子にすら到底追いつけないものだってことをあらためて思いましたわ。

投稿: K卿 | 2006/11/16 11:16

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